近年はコミカルなキャラクターだけでなく、シリアスな演技でも注目を浴びている俳優のムロツヨシ(45)。そして、タレント・映画監督・小説家など多方面で活躍する、お笑い芸人の劇団ひとり(44)。2人は道化を演じながらも、どこかミステリアスな雰囲気を漂わせる。それは、芽の出なかった駆け出し時代の焦燥感や心の傷に裏打ちされたものかもしれない。彼らはどう不遇の時を脱し、成功を手繰り寄せたのだろうか。(取材・文:鈴木旭/撮影:栃久保誠/編集:水上歩美(ノオト)/Yahoo!ニュース オリジナル RED Chair編集部)
築いたイメージを「捨てる勇気も必要なのか」と考えてしまうお年頃
2人の出会いは、新宿区荒木町のマジックバーだった。2000年代に放送されていた『やぐちひとり』(テレビ朝日系)の中で、矢口真里が劇団ひとり(以下、ひとり)に「最近、ムロさんと飲みました」と話したのをきっかけとして、「その方を入れて飲もうか」という流れになったのだ。
独身だったひとりの自宅に、飲み会で終電を逃したムロツヨシ(以下、ムロ)が泊まったこともある。ムロは「始発まで僕と一緒に過ごしてくれたあの日は絶対忘れない」と振り返り、ひとりは「たぶんあの家に来たのは、ムロツヨシと(妻の)大沢あかねだけ」と笑う。あれから約15年が経った。
ひとり:僕はあの......人付き合いが悪いもんで。マジックバーでは場を取り持っていただき、本当に助かりました(笑)。
ムロ:いやいや、当時はそれが生きるすべだったので(笑)。
ひとり:ベテランの役者はスキルが備わってるじゃないですか。その先は、どう生きてきたかが芝居に反映されますよね。ムロさんはいい人で、それがみんなに愛されている。
ムロ:でも最近、映画でご一緒した荻上直子監督から「明るく振る舞うムロツヨシ、ここではいらないです。自分の役のことだけ考えてください」と撮影初日に言われて。"人に合わせるのではなく、自分のやり方を押し付けることも大事だ"と教わりました。でもテレビドラマだと、みんなで作っていく現場の雰囲気もやっぱ大事なんですよね。
ひとり:僕も映画の裏方をやってて、変な空気の時に役者が明るく振る舞ってくれると助かるし。難しいよね。陽気なムロツヨシが欲しくてお願いしたのに、「ん? 何か違うぞ」ってなる可能性もあるから。
ムロ:そう、求められることが現場によって違うんですよね。
ひとり:ムロさんみたいに芸歴が長いと、"ニュートラルな芝居"がその人の完成形じゃないですか。昭和の名優たちはどの役を演じても「その人の色」を持ってますよね。よく「いつ見ても一緒だ」と言う人がいるけど、それは裏を返せば役者としての芯があるってことで。僕はそっちのほうが圧倒的に説得力あると思うんですよ。役者としては「違う自分を出したい」ってこともあるだろうけど。
ムロ:ひとりさんは演出もやられているから言葉の重みが違いますね。たぶん一番自然にできる芝居が、制作陣、監督、お客さんが抱いている"僕のイメージ"に近い。だからこそ、「もっと上を目指すためにはそれを捨てる勇気も必要なのか」とか考える40代中盤です。
ひとり:僕みたいにしゃべるスタイルでさえ、やっぱり20年前とは違う。いろんな人と話すなかで口調とか表情が自然に変化してきた。だから、とくに演出側から注文がなければ"一番得意な芝居"をやればいいんじゃないかな。取って付けたようなことをやっても、役者としての深みは出ないだろうし。
きっかけは『ひょうきん族』のテープ、結局たけしさんを追っかけてる
一見似た者同士にも思えるが、幼少期の環境はだいぶ違う。ムロは4歳の頃に両親が離婚し、父方の叔母のもとに預けられた。本能的に「ここで嫌われたら行くところがない」と感じ、周囲を気遣っておちゃらけるようになった。ムロいわく、「今の原形である"おちゃらけキャラ"はその頃に生まれた」らしい。
ひとりは父親がパイロットだった関係で、小2からの3年間を米アラスカ州で過ごした。冬はスキーを満喫し、夏はキャンピングカーで釣りに出掛ける日々。本人いわく「かなりのお坊ちゃま」だった。どちらも、今の仕事を選ぶきっかけは明確に覚えている。
ムロ:大学1年生の5月に、中井貴一さん主演の舞台『陽だまりの樹』を観に行きました。そこに出ていた段田安則さんを見て、もう即座に「あちら側に行きたい」って。役者を目標にした日です。
ひとり:え、それまで役者には?
ムロ:そこまで興味なかったですね。1浪して、受かった大学の一番偏差値の高いところに行き、また就職活動の時にがんばっていい待遇の会社を目指そう、ぐらいの人生設計だったので。舞台を見て、急に変わりました。
ひとり:僕は(アラスカで)日本のテレビが見られなかった。ただ月に1回、千葉の同級生だった友だちが『(オレたち)ひょうきん族』(フジテレビ系)を録画したビデオテープを送ってくれて。
『ひょうきん族』がすべてだったから、もう擦り切れるほどに見て。「タケちゃんマン」も、本当のヒーローとして見てましたね。たぶん、お笑いの根底はそこでできた。
帰国後は『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)ですよ。その中で「お笑い甲子園」が始まったから高校時代に応募して、出てっていう。全部つながってますね。『ひょうきん族』のテープがなかったら今には至らない。小説書くのも映画撮るのも、結局たけしさんを追っかけてるんですよ。
「役者を目指すって最初は楽しいけど......」柄本明の教え
ともに駆け出し時代は苦労した。ひとりは、お笑いコンビ「スープレックス」で6年活動したが、同業者に実力を認められるも鳴かず飛ばず。事務所ライブのアンケート投票では最下位もザラ。アルバイトも長続きせず、パチンコにのめり込んだ。2000年にコンビは解散。ピン芸人の道を余儀なくされた。
ムロは、劇団「ヤニーズ」を立ち上げるもメンバーとの温度差が生じて脱退。その後、役者としての経験値を積むためにお笑いライブに出演するなど 試行錯誤の時期もあった。
ムロ:無名の役者として小劇場で活動していた頃、自分が決めた目標は何一つ叶ってなくて。でも周りはどんどん就職して車を買い、家庭を持ち始め......。「みんなで集まろう」となった時に、嘘ついて行かなかった時ありますもんね。
ひとり:俺もやったわぁ。同窓会行けなかった、恥ずかしくて。仕事ないくせに「ごめん、俺仕事だわ」とか言って。芸人は地方営業があるから、ちょっと深夜番組に出てればあとは営業で小遣い稼ぎをできるんですよ。
でも役者は、がんばりようがないというか。まず"受け"から入るじゃないですか。「この役、お前ね」って言われて、渡された台本に「(首を傾げ)う~ん」っていう場合も多々あるだろうし。
ムロ:柄本明さんに言われたのが、「役者を目指すって最初は楽しいけど、いずれ努力の仕方がないことに気づく」ってこと。たとえば肉体を鍛えようと思ったら、過酷なトレーニングを課せば理想の体に近づくし、筋肉痛に耐える喜びもある。けど、「いい芝居をしようとする訓練」は、自分の中で探すしかない。さらに、「"経済的に困る"という一番苦しい時間をどう過ごしていくかだ」ってことも教わりましたね。
ひとり:僕は当時、病的に「リセット願望」があった。お笑い芸人なのにテレビを捨てて、服も5着ぐらい残してあとは捨てて。携帯電話の番号さえ変えて、誰とも連絡つかない状態。でも、生活は何も変わらなかった。
結局、すぐテレビ買いましたしね(笑)。物を捨てたからって人生変わらないですよ。精神的に良くなかった、あの時期は。
1周目はご祝儀、2周目から自分の力
"異性の存在"も、若き日の2人の心を突き刺した。お笑いライブの来場者は女性が9割。ひとり曰く、「スベる=オスとしての恥」だった。そんな状況下で続く、屈辱的な空回りの日々。ムロも交際相手から「口ばっかりじゃん」と手厳しい言葉を浴び、「この人に『面白い』と言わせるものを作ろう」と唇をかんだ。
借金も膨れ上がり、ともに消費者金融には上限ギリギリまで世話になった。「ほぼ何の希望もなかった」と口をそろえる。完済したのは、ひとりが25歳、ムロに至っては30代中盤を過ぎた頃だ。
ムロ:根拠のない自信を全部使い切ったのが26歳。「ここまでやって何もないから、日の目見ないかもな」と思い、自分に「もう辞めますか?」と聞いたけど、「辞めない」って言うんです。
そこから、名刺配りが始まるんですよ。いろんなところにお酒を飲みに行って、「コイツと仕事したい」となればいいなと思って。ひとりさんの家にお邪魔したのも、ちょうどその時期だった。その延長線上で、本広(克行)監督と出会って『サマータイムマシン・ブルース』の出演が決まりました。
ひとり:やっぱり大事ですね、そういうの。しかも、けっこう大きい役でしたよね?
ムロ:メインでした。ちょっとした端役かなぁと思ってたら、8人の群像劇の1人でずっと出ずっぱり。すごくうれしかったけど、1回目は奇跡とか縁だったりしますよね。
ひとり:お笑いでもよく言われるんですよ。テレビに出始めた時は、どの番組でも1回は呼ばれる。1周目はご祝儀だから。2周目からが自分の力。
ムロ:ひとりさんが1周回った時って、きっかけはネタですか?
ひとり:泣きです。深夜番組の『本能のハイキック!』(フジテレビ系)で泣きじゃくったのがえらいウケて。そこから、泣き芸につながるんですよ。「あれ、うちの番組でもやってくれ」って感じで。
最初は自力で泣いてたけど、1日に3、4回収録があると泣けなくなってきて、目にメンターム塗るようになった。そのうち、まぶたじゃ効かなくなって目ん玉に直接塗り始めたら、眼科の先生に「このままいったら視力失うよ」と言われて泣き芸を封印しました(笑)。
あと10年がタイムリミットだろうなって
運命的な巡り合わせも、彼らの人気を後押しした。ひとりは、『ゴッドタン』(テレビ東京系)などの演出を手掛ける佐久間宣行と出会い、芸人としての幅を広げた。ムロは、『勇者ヨシヒコ』シリーズ(前同)などコメディー作品を数多く制作する福田雄一と組み、コミカルな演技に拍車がかかった。
ひとり:僕はモノを作る側の仕事がすごく楽しい。今は9対1にもならないぐらい裏方の仕事は少ないけど、10年後にはこれがひっくり返ってたらいいな。
ムロ:1対9になってもいいぐらいですか?
ひとり:うん、バラエティーも好きだけど、裏方をやるならどうしても本職のほうを減らしていく必要があるし。年齢的に作り手としての寿命は刻々と迫ってる。だから、どっかでちゃんと腹決めてやんなきゃとは思ってます。
ムロ:「自分の中にある何かに限りがあること」をわかってる、と。
ひとり:10年後は10年後の自分になっちゃうから、やっぱ今の自分で作りたい。年とっても元気な人はいっぱいいるけど、それってきれいごとで。体力、気力、あと"発想の部分"で言うと、ある程度限界が迫ってるんだろうなって。
自分が何かを生み出して「これだけは棺桶に入れてくれ」と言えるものを作れるのは、あと10年がタイムリミットだと感じますね。まだどっかで自分に期待してるんですよ。
ムロ:うんうん、すっごい共感します! 僕は今公開している『マイ・ダディ』という映画が代表作になっててほしい。あとはマネージャーさんから「『裸の大将』やりましょうか」と言われてて。別にオファーとかないんですよ? でも、そういうみんなが知ってるものをやる目標を作ってもよいのではないかと。
ひとり:"寅さん"(映画『男はつらいよ』の主人公・車寅次郎)ハマるんじゃないですか?
ムロ:う~ん、それは恐れ多くて自分の口からは言えないですね。
ひとり:『マイ・ダディ』はシリアスな役だったけど、コメディーでおちゃらけた役をやった時に「やっぱムロツヨシってバカだな」と言われたら最高の褒め言葉じゃないですか。「俺が2代目寅さんだ」って言い続けてくださいよ。
ムロ:それは、本当に自分から言ったらダメな言葉(笑)。でも、そこは目指そう。自分の代名詞を持つことは、役者としての一つの答えですもんね。
ムロツヨシ
1976年生まれ。俳優・演出家。2005年公開の映画『サマータイムマシン・ブルース』出演後、『勇者ヨシヒコ』(テレビ東京系)シリーズなどコミカルな演技で人気を博す。現在、初の主演映画『マイ・ダディ』公開中。
劇団ひとり
1977年生まれ。お笑い芸人・俳優・作家・映画監督。コンビ解散後、2000年からピン芸人に。2014年、著書『青天の霹靂』(幻冬舎)を原作とした同名映画で監督デビュー。今冬、Netflix映画『浅草キッド』の公開が控えている。
【RED Chair+】
2人の本音に迫る『RED Chair+』。家族、戦友、ライバル、師弟など、この関係だからこそ語れることに踏み込みます。